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戸隠参詣顛末記 ’14 その6〜三鷹武蔵境整体〜


身体生命にもっとも遅れて登場したのが我らの意識である。

遅れて登場したということは意識が自然性のレベルに到達していないと言うこともできる。
僕たちを取り囲む自然は数億年から数十億年単位の変容を経験している。

そんな大自然にたかだか百万年のホモサピエンスの脳が傲慢にも互角以上になろうとしている。
通常の考えだと、進化の先陣を切っているのは脳の働きを代表する意識というものである。

が、僕の舞踏ではこれが逆で、意識能こそが邪魔となる。

 

目的や基準が設定された(様式のあるものは)最初からこの意識能をはずせる。

ただただ夢中の訓練によって、積み重なる技がある。
しかし、僕の舞踏は意識の彼方からの音づれをただただ待っている。

見えるものの向こう側に立ち上がるものを眼を穴にして待つ。
それは、十年に一度くらいの遭遇かもしれない。一生涯出会わないかもしれない。

でも僕は感じようとする。身体内を巡る四季への信頼とともに。

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僕が神殿舞踏と銘打ったのは何も神社のお社で踊るからではない。

神殿とは敢えて言えば、光と闇が合い戯れるところ。
光が光であることを脱ぎ捨て、闇が闇であることを脱ぎ捨てる場である。

だとすれば、その自在な変貌を遂げる道場こそ、自然界であり、身体そのものであり、内面抽象界である。
つまり、どこもかしこも神殿であり、いかなる瞬間も神殿なのである。

ゆえに、神殿舞踏の真意は切るな!、分けるな!、比べるな!となるのである。

 

どんな自然にも溶け込んで似つかわしいものは子供と老人である。

自然に似合うのは意図や目的や操作や評価のない姿である。
幼子はその無邪気さにおいて、老人は刻まれた皺において自然に溶け込んでいる。

フリをする必要がない彼らは踊らずもすでに舞踏者である。
それでも自然は、自然そのものをを神と呼ぶものたちを許した。

そして、神を名乗る王をも許してきた。
それは、人間精神が自然性のレベルまで進化するのを待っている姿勢である。

圧倒的な自然の中で、自然は人間の技など求めてはいない。

踊ることによって、待っているのは、否、踊っているのは僕よりも自然のほうだと知ることになる。

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