ブログ

ブログ詳細

神殿舞踏 〜 三鷹 舞踏 呼吸 ストレッチ カウンセリング 整体


神殿舞踏

 

踊りについて言葉にするのはちと憚れるのだが、なぜなら、言葉以前の様態に踊りの真骨頂があると思う から。それでも、時には言葉をもって近づいてみるのも一興かと思う。

 

私は自らの踊りを「神殿舞踏」と名付けている。そして、『舞うことは祈り、問うことはいつか祝福へと導かれる。「いま・ここ」の深淵に触れ、「いま・ここ」があらゆることの宝庫と知る』とからだはうすのパンフレットには記される。

 

何故に神殿か。まずこの身体生命が躍動する「場」としての外的時空間をひとつの神殿としてとらえる。つぎに、物質的厚みを持ったこの身体生命そのものが小宇宙としての神殿であり、さらに、その小宇宙なる生命内部に精神とか魂とかと表現されうるような抽象的ではあるが、個的生命を厳然と支える泉は見えざる神殿である。私はこれら神殿の三位一体的ダイナミズムそのものが踊りだと考える。「神殿舞踏」とはそうした想像から生まれた。

 

しかしながら、はたして「神殿」とはなんだろう。字義的に解すれば神の住まいである。では神とは。原始古代の人々は人間のあらゆる総力をもってしても届かぬ大いなる自然の力を神と呼んだ。人間の意識が発達した現代においても、生と死の境にそれは纏わりついている。生まれるということと死ぬということの圧倒的神秘と不思議を思えば、自分がこの世に存在しているということこそが最大の不思議であろう。そして、人がこの不思議に翻弄され続けながらイノチをつないできたということは、私たちは神と共に生きてきたと言えまいか。

 

いつの頃か人々は神と宗教を合体させた。極論を言えば、神とは個人とつながり、宗教は共同体とつながる。前者は遍(あまね)くものと個人との本性にも近い感覚関係であり、後者は人と人をつなげる媒体となり巨大化したひとつの概念をいただく実に社会的な体制である。宗教のヤバさは常に社会性を含んで存するということからくる。敢えてこう言うのは「神殿舞踏」は宗教とは無縁であることを知っていただきたいからである。

 

宗教とは無縁でも神と無縁な人はいない。実際、生と死は神との遭遇の瞬間である。神に委ねられた生と死の間が人知の及ぶ生活時間としてある。それでも、神殿としての大宇宙小宇宙には人知の及ばない不思議があちこちに顔を覗かせる。

 

もし「神殿舞踏」が祈りとして成り立つものならば、そこに想定されるものは死である。祈りは如何ともしがたい状況において現出する。それは死を挟んで彼の世と此の世への切実なコンタクトである。わかりやすく言えば、祈りとは旅立った者への弔いの念か、もしくは生存する自他の救済の叫びが始まりである。方や唯一の手段であり、もう一方は最終的な方法である。どちらも未知なる世界への声かけだが、私はそれを踊りにおいて試みる。祝賀としての踊りもあるが、目出度きことはすでに完了している。

 

「神殿舞踏」は人を喜ばせたり感動させることや自分が楽しむことを目指さない。ただただ日常の意識や感覚を脱いでいきながら、自らの異形の出現を待つ。日常生活で落ちこぼれたものを拾い上げ、隠れていたエネルギーを時空に晒す。大切だと思っていることを囲っていては踊りにならない。まして祈りにはほど遠い。

 

救済の叫びを踊りで示した好例がアメノウズメノミコトである。アマテラスが天の岩戸に隠れ世界が真っ暗闇になったとき、神々の知恵は踊りの狂乱を選択した。ギリギリの危機的状況を脱出するためにアメノウズメは狂わずにはいられなかったろう。一説によれば、アメノウズメは日本で最初のストリッパーだそうだ。祈ることが脱ぎ捨てることと見事に通底しているということを神話が教える。踊りが世界を救ったのだ。

 

私たちは、心から「助けて下さい」と請うことがあるだろうか。社会的なスタンスから離れ、純粋に自己という存在を何かに託すことがあるだろうか。私の踊りはその「何か」と出会うための試みであり、それを称して「神殿舞踏」という。

 

なんだか気合が入り過ぎたかな〜。

 

 

■からだはうす
TEL     0422−38−8656
営業時間  通常日 :10:00~21:00 (最終受付20:00)
      水・木 : 10:00~19:00 (最終受付18:00)
定休日   お問い合わせください

■トリートメントルーム satowa
TEL     090-4417-3434
営業時間  平日:12:00~21:00
      日曜・祝日:11:00~21:00
定休日   第2日曜日
  • facebook
  • twitter
  • mixi