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死に向かった男たち ~ 三鷹 整体 呼吸法 デトックス ストレッチ カウンセリング


男のセクシャルな生態には無意識裡に欠乏感覚がある。それを埋めるために用意されたものが、筋力や体力という「パワー」と「集中力」であった。それを如実に示すものが「修行」と呼ばれる行為ではないだろうか。男はあの非生産的行為の中に何を見い出そうとしたのだろう。

 

理屈では身心を脱落させて悟りを得る行為らしいが、その厳しさにおいて並大抵のパワーと集中力ではない。修行の方法もいろいろあるが、基本的に共通するのは食と性のエネルギーとの対峙である。粗食(断食)と禁欲がそれである。

 

食と性のエネルギーは人間生命の力の源である。ところが、修行は食と性を絶つ。食は個体を維持し、性は種を存続させるものなのに、なぜ生命の方向性に逆らうのであろうか。

考えるに、食と性を絶つ修行とは死に肉迫しようとするものである。男は「パワー」と「集中力」をもって死に直面することで自らの欠乏感に落とし前をつけようとしたのではないだろうか。

 

男たちがいつ頃から修行という反自然的な行為に目覚めたのかはわからないが、そもそも男の身体生理が自然性から疎外された形で登場したということと関係していると私はみる。

 

自然界はどこもかしこも神秘な生成の場である。女性も新しい生命を生成する。しかし、自分には生成するものがない。この事実に気づいた男たちは無意識裡に消沈したのではないだろうか。自分には自然サイクルとの調和がないと。

 

自然が常に生の謳歌に向かうことを考えれば、死への肉迫は男として自然や女性と唯一対等に渡り合える行為である。そこで男たちは漲るパワーと研ぎ澄まされた集中力を持って生成にではなく死に向かい合ったのだと思う。

 

宗教概念としての「修行」は分かりやすい喩えとして挙げたのだが、いずれにしても、自然や女性に匹敵する存在価値があるということの証は、死と背中合わせの危険を賭すことであった。冒険的行為や戦いや他人がやらないこと、つまり未知に向かった。悲しいかな、男とは自ら「男を試している」のである。

 

そして、いつしか男たちの「パワー」と「集中力」は自然界や女性たちの特権である「生成」に匹敵するものに出会うことになる。その出会ったものの名を「創造」という。創造はやがて労働を生み、これにより食は満たされていき、過剰な性エネルギーの振り分け先が確保されていくのである。

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